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2020.10.16

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Jリーグ初期のユニフォームが生まれるまで

Jリーグ初期のユニフォームが生まれるまで

2020.10.16

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Jリーグ初期のユニフォームが生まれるまで

ここ最近、1990年代のファッションやデザインが注目されているが、サッカー界でも90年代のユニフォームからインスピレーションを受けたデザインを見る機会が増えている。中でもJリーグ初期のユニフォームは、当時を知らない20代を中心に人気で、イギリスの “Classic Football Shirts” をはじめ、海外でも高値で販売されている。改めて振り返ってみても、Jリーグが成功した要因の一つとして、ユニフォームが果たした役割は大きいだろう。

開幕から25年以上が経ち、改めて注目されるJリーグ初期のユニフォームだが、実は1993年から1995年まではミズノが一括して全クラブのデザインを手がけてきた。どんな思いでこれらのユニフォームが生まれたのか、当時Jリーグのユニフォーム委員会で企画担当を務めた楢原茂樹氏に振り返っていただいた。

Text:Takashi Ogami(SHUKYU)
Photo:Classic Football Shirts、J.LEAGUE

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目次

  1. 子どもたちが憧れるようなユニフォームを
  2. クラブの個性を表現
  3. 試行錯誤の日々
  4. 運命の開幕戦

子どもたちが憧れるようなユニフォームを

ーこのプロジェクトに関わった経緯を教えてください。

楢原:この話が来た当時は、大阪でサッカー、ラグビー、バスケットボールのウェアの企画を担当していたのですが、上司から「Jリーグが開幕するから、クラブのユニフォームのデザインをしてみないか」という打診を受けて、すぐに東京へ移って準備を始めました。1990年の9月だったと思います。メンバーは、私以外に大阪が2名、東京が5名の計7名でした。

社内のデザイナーもいましたが、1社だけでやると似たようなデザインになってしまうので、他にも4社へ外部委託していました。ヒントになるようなアイデアや各クラブとのヒアリングでわかったことを私がまとめて、それぞれのデザイナーと共有しながら進めていましたね。

ーデザインを進める上で、意識していたことはありますか。

楢原:クラブの担当者には、Jリーグは日本リーグの延長ではないことを何度も言いました。プロリーグでは、「フィールドはステージ」「選手はアーティスト」です。なので、ステージ衣装となるユニフォームも、子どもたちが憧れるような夢のある格好いいものにしましょうと話しました。

ユニフォーム選定委員長だった木之本興三さん(元Jリーグ専務理事)からは、「一目見てどのチームかすぐわかるように、ユニフォームの色が被らないようにしてほしい」と言われました。ただ、最初は10クラブのうち7クラブ(鹿島アントラーズ、ジェフ市原、横浜マリノス、横浜フリューゲルス、清水エスパルス、ガンバ大阪、サンフレッチェ広島)がブルーを希望していて、どうすれば各クラブが納得のいく形で別々の色にできるか研究しましたね。ちょうど準備室の下が本屋だったので、それぞれの地域にまつわる本を買い集めて調べました。

印象的なのは、鹿島のローズレッドです。茨城の県花がローズなので、当時担当だった鈴木秀樹さん(現・取締役マーケティングダイレクター)にこの色を提案すると、「もっと強そうに見える色がいい」と言われましたが、「チームが強くなればその色が強く見えるんだよ」と話すと納得してもらえました。

他にも、ジェフは千葉の県花が菜の花だからイエロー、フリューゲルスは空の雲をイメージした白、広島は高貴な色であるバイオレット、名古屋とガンバは親会社のトヨタ、松下電工の企業カラーです。清水は静岡のみかんからイメージしたオレンジを提案したのですが、なかなか首を縦に振ってくれませんでした。でも、ファッションデザイナーの安部兼章さんが提案するとすんなりOKが出て、言葉の重みの違いを感じました(苦笑)。清水のユニフォームにプリントされた地球儀の柄は、原寸大に落とし込むのが大変でしたね。実は南の島に兼章さんの名前が入っています。「楢原さんの名前も入れてあげようか?」と聞かれましたが、断りました(笑)。

あと、ナイターの時にスタジアムのライトを全種類照らして、夜だとどんな風に見えるか検証しました。他にも、セカンドユニフォームの色やスポンサーロゴのサイズなど、細かいところまでリーグやクラブと話しながら進めていきました。

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クラブの個性を表現

ー印象に残っているエピソードを教えてください。

楢原:当時、ヴェルディ川崎の代表を務めていた小川さんは、読売新聞で美術の記者をされていたので、美術的にも長けたものを作りたいと思っていました。前年に視察でヨーロッパ出張へ行った際に、たまたま訪れたオルセー美術館でモネの「落穂拾い」を鑑賞したのですが、遠くから見たら緑でも、近くで見ると濃淡のある油絵のタッチで、絵を見る距離で同じ絵でも印象が違いました。そこからインスピレーションを得て、スタジアムで選手を見た時に、距離感による視覚的差異を表現できればと思って提案しました。それまでに60パターンほどのデザインを出しましたが、最後に出したこの案で即決し、OKをいただいた時は見えないようにガッツポーズしましたね。

ー柄にもそれぞれモチーフがあったのでしょうか。

楢原:鹿島は、鹿島灘の海、エンジでブルーの波をイメージしました。ジェフは、クラブから出てきたデザインでしたね。レッズは、赤の濃淡でダイヤモンド柄を表現、ヴェルディは当時ゴッホが没100年で展覧会があり、そこで見た油絵の筆のかすれを参考にしました。マリノスはスペイン語で「船乗り」という意味なので、水しぶきを表現して、船乗りのセーラー服のVネックと勝利のVを掛け合わせました。フリューゲルスは空に三角の柄が飛び立っていくようなイメージで、清水は安部兼章さんの地球儀、名古屋グランパスは鯱で、知的野蛮人というチームスローガンもあったので、胸のV部分は鏃の柄をイメージしました。ガンバは電気の稲妻、サンフレッチェ広島は高貴な紫とナイターでも映えるグリーンとオレンジの蛍光色をサブカラーで使いました。

ーGKのユニフォームもかなり攻めたデザインです。

楢原:全チームにオリジナルデザインを提案できるほどのノウハウや力がなかったので、数パターンのデザインを作りました。「キーパーはここにいるんだ」と存在をアピールするデザインや、反対に「あれ?ここにキーパーがいたのか」というような忍者のイメージなど、各クラブの意向に沿って選んでもらいました。

ー背番号も特徴的ですが、どうやってデザインされたのでしょうか。

楢原:各クラブのスポンサーやロゴを参考にして、それに近いフォントを探しました。オリジナルのものでは、アントラーズはマーク屋に依頼をして、アントラーズの書体を参考にして、ジェフは胸のマークを元に作りました。ヴェルディの背番号は今でも他のチームが使っていて嬉しいですね。

ースポンサーなどのマーキングの色も、最初は統一されていましたよね。

楢原:当時は胸番号もありましたし、統一性を持たせた方がデザイン的に映えるんじゃないかということで、色を合わせました。最初、マークは光沢のある生地を使っていましたが、ある日スポーツ新聞を見たときに、フラッシュで胸のマークがハレーションを起こしてしまっていたんですね。スポンサーからクレームが来たら困るので、途中から光沢のないマット地に変更しました。

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©︎J.LEAGUE
1992年5月26日に行われたJ.LEAGUE PRESS PREVIEW内でのファッションショーの様子 
(上) 各チームの紹介を兼ねたユニフォーム紹介シーン
(下) サポーターファッションは、以下の言葉と一緒に紹介された。
“We are J.LEAGUE Supporters, Let’s have fun and Enjoy ourselves! If we can do, we can all be friends!”

試行錯誤の日々

ーユニフォーム自体の生地も、今とは違いますよね。

楢原:プリントで綺麗な色を出すために、素材はポリエステル100%でした。ただ、当時マリノスでプレーしていた井原正巳さん(現・柏レイソルヘッドコーチ)が、汗をしっかり吸う吸水性のある綿を使ってほしいとおっしゃったので、綿100%のインナーシャツも提案しました。Jリーグのインナーシャツはここから始まりました。今ではインナーシャツも当たり前になりましたが、それまではユニフォーム1枚だけで着ていました。

パンツは本来裏地だった面をJリーグでは表で使っていました。光沢があって綺麗で、強度的には落ちますが、格好よく見せることが大前提でした。でも、今はそれが当たり前になりましたね。

ストッキングはナイロンの肌触りの良い柔らかい糸を使っていたのですが、白糸のストッキングはナイロンだと黄変してしまいます。なので、白糸のストッキングはポリエステルでした。選手からは白のストッキングを履くと硬いし縮むという意見がありました。なので、白ストッキングを履いているクラブには直接出向いて、手で伸ばしていた記憶があります。

ー苦労したことはありますか。

楢原:とあるクラブの話ですが、なかなかスポンサーが決まらなくて、集合写真の撮影の直前にやっと袖のスポンサーが決まって、両面テープで袖にワッペンを貼って撮影しましたね。終わったらワッペンとユニフォームを回収し、持って帰って縫い付け作業をしました(笑)。少しでも高く売りたい気持ちもわかりますが、大変でしたね。

あと、各クラブが利用しているクリーニング屋を回って、ドライクリーニングは絶対にしないでくださいと話しました。それでもマークが剥がれたクラブはありましたが。なので、トラブルが起きてもすぐ対応できるように、常に全チーム分の予備を持っていました。

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運命の開幕戦

ーユニフォームを着た選手がプレーする姿を観た時は、どんな思いでしたか。

楢原:泣きましたね。1993年5月15日に国立競技場で観た横浜マリノス対ウェルディ川崎戦。いよいよやってきたとドキドキしながら迎えた当日、キックオフの瞬間は鳥肌が立ちました。上司の石川さんとピッチにいましたが、お互い絶対に泣いているだろうなと思いながら、離れた場所で試合を観ていました。

ーその後、ユニフォームの反響はいかがでしたか。

楢原:開幕前の3月20日ごろに発売しましたが、当初は全然売れませんでした。1枚11,500円ぐらいして、それなりの価格ですよね。ただ、コストを考えると仕方ありませんでした。最初は本当に全然動かなくて、神田の本社にある倉庫の壁面に10チームのレプリカが1000枚ずつ積み上がっているような状況でした。棚卸しのたびに「在庫をどうするんだ」と散々文句を言われました。開幕すればすぐになくなると言い返してはいたものの、内心は不安でしたね。

ところが、開幕した途端に飛ぶように売れるようになりました。当時、ヴェルディは青山に直営店を出していましたが、試合のたびに200枚売れていて、直営店の在庫を切らしてはまずいと、常に在庫をキープするために対応に追われました。レッズの場合は、マーク加工の工場が福井にあったのですが、夜中に福井まで行ってマーク加工を手伝って、大きなチームバックに500枚ほど詰め込んで、電車に乗って東京駅まで戻って、うちの社員に社用車で迎えにきてもらって、駒場まで運んだことを覚えています。綱渡りでしたね(笑)。おかげで、各チームからの信頼は得られたと思います。

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ーJリーグ開幕当初にあれだけのインパクトを残したユニフォームは、後世に残るフロンティアになっていると思います。社内でも、ユニフォームの企画はチャレンジだったのではないでしょうか。

楢原:大きな挑戦でした。当時は社長管轄だったので、何でもできたことは大きかったと思います。

ー最後に、楢原さんにとってJリーグはどんな存在ですか。

楢原:私の宝ですね。孫にも自慢しています。小学4年生ですが、地元の少年団でサッカーをしながら、リフティングパフォーマンスのスクールにも通っていて、週1で私が送り迎えをしています。孫にはかないませんね。

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